2022.04.27 村上龍「最後の家族」
緊張感のある中で、みんな無理をして家族を維持しようとしていた。最後はそれぞれが外とのつながりを持ち、自分の置かれている環境、自分自身のことを客観視することができ、自立することでよい形に収まり良かったと思う。
この本、とても読みやすかったです。家族4人、それぞれの視点で描写されていて、同じ場面について感じたことを本人それぞれの気持ちで語られます。考えていることがそれぞれちょっとずつ違い、その違っている理由(伏線)がきちんとわかり、それが読む人にも理解できます。なんでそんなことしたの?という疑問がなく、すっきりします。
❖(秀樹)引きこもり本人の気持ちが良く分かった。ボタンの掛け違いというかちょっとしためぐりあわせの悪さでそうなってしまった。引きこもりの自分を客観視していて、まだ大丈夫とか大先輩がたくさんいるという発想をしつつもあせっているのが良く分かった。今の状態を決していいとは思っていないし、できれば改善したいと思っている。でもまわりの人は引きこもりであるがゆえに最初から否定から入ってきてしまい、当人を無視した態度できてしまう。話を聞いてくれない。自分を信用してくれない。決めつけられてしまう。せっかくの思いがつぶされてしまう。そうやってますますその世界から出られなくなってしまうんだろうなと思った。
切れて暴力をふるってしまう過程の気持ちが描写されていて興味深かった。あれ?あれ?っと自分でも変な方向に進んでしまっていることを自覚しつつも、自分のことを分かってもらえない憤りが収まらず、暴力へとつながってしまう。そして、深い後悔に陥ってしまう。
秀樹の場合はちょっとしたきっかけで、正義感というか、ちょっと不純な動機もあったけど、ユキを助け出したい、自分のことを頼りに思ってくれていると考えることで、どんどんパワーが生まれて、ほんとによかった。
❖(知美)裏表紙の紹介文「援助交際で男と出会う女子高生の知美。」という文章に悪意が感じられます。まぁ、物語を面白そうに紹介することによって読者を獲得しようということかもしれませんが、全然そんな子ではありません(そんなこともしていません)。
近藤は不思議な存在なのですが、知美の良き理解者です。自分自身の困難を乗り越え、やりたいことを見つけて、ひたすらに前を見ている青年です。ほんわかと知美を導いてくれる感じです。
家庭に緊張感があり、当事者ではないものの、争いがある空間にいるというのは、それはそれで心が疲弊してしまうものだと痛感した。
❖(昭子)裏表紙の紹介文「若い男と不倫する昭子。」という文章もまたまた悪意が感じられます。だから家庭が壊れたんでしょ。と思ってしまうかもしれませんが、ちょっと違うと思います(実際にはお茶のみ友達です←別居するまでは)。延江は昭子の良き理解者です。確かに延江の元気さ・食欲・前向きさをみているとどうしてうちの秀樹は・・・という、比べてはいけないのでしょうが、比べずにはいられない感情、分かります。
専業主婦である昭子は、威圧的な夫と、うまくいかない子供との関係にどうすることもできず、自分が家族のクッション材の働きをすることで自分の存在意義を見出していた。家庭の中がすべてであり、外の世界、いろいろな考えがあることを知らなかった。引きこもりの息子というどうしても理解できないものを前に、いろいろな人の意見を聞いたり、勉強することで理解を含め、自分自身との折り合いをつけることができるようになり、お互いによりかからない、自立した関係を築くことができた。夫がアパートへ避難することによって、ほっとした自分がいた。いろいろなところに気を使っていたんだろうな。
子供を育てることだけが人生であってはいけない。そんなことを感じました。
❖(秀吉)秀吉の視点に立てば、すべて正当なことなのだろうけど、ちょっと、度が過ぎたかな。確かに家族のために仕事を頑張り、会社がやばい状態にあることも隠して一生懸命だった。そして仕事人間としての基盤を失いそうになり、家族を養っていくことも難しくなってしまう状況がやってきた。そのことを家族に告げないといけなくなった時、父としての威厳を失ってしまうことを恐れたが、実際には違っていた。家族はすでに自立していたのだ。秀吉こそが家族のために無理をしていたのかもしれない。アパート暮らしをしなければならなくなった時、一人でほっとした時間を過ごしていることに気が付いたように。
秀樹に対して、話も聞かず、全否定から入るのはひどいと思った。こうなったのも、小さいころからの夕食は家族一緒でという押し付けが原因の一部ではないかと思う。
「家族で一緒に夕食。」はたから見れば、仲良し家族でいいことのように思えるけど、営業職である秀吉の帰りが遅くなる時であっても待たせるというのは、父親の押し付けに過ぎず、こうやって考えると「家族で一緒に夕食。」というのは何の意味もないことがわかります。
家族という形をみなで演じ合う「偽物家族」みたいですね。